昭和52年11月30日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 昨日は敬親会で、お年寄りの方達が沢山集まって、もう本当に敬親会の日だけしかお参りが出来ないという方も沢山あります。けれどもそれを非常に、楽しんでお参りされます。以前は敬親会は、先ずお茶を頂いて銘々が持ってみえた、饅頭とかおやつとか、いろんなそういうものを先に食べてしもうてから、それから私の話を聞くというのでしたけれども、この頃はもうお茶を飲む時間がなくなるくらいに、お話に皆一生懸命、まあ研修をされるわけです。
 昨日は私が司会を致しましたから、あのずうっと右側の列から、順々にお話をしてもらいました。もうそして本当にお話が出来る、出来ないじゃないけれども、めいめいがおかげを受けておられると言う事に驚きました。なるほどおかげあの楽しんで参って見えるはずだと。もう月に一遍お参りをして、親先生にあれやらこれやらをお願いしとくと、もうその一つ一つが成就する。もう本当にこの頃は、もうそれこそ、極楽ですと言うおばさんがありました。
 それを私があの直ぐ私のそばに、あそこの中村すぎさんがおられましたが、本当あの婆さんなんかはですねもう、もうずうっと喧嘩の絶え間がなかった、爺さんとの間に子供との間に。もう村でも評判するごたったつが、もうちょいと善導寺にこの頃移っとりなさいますが、善導寺に移ってからあのやっぱり参ってきなさる。それが昨日お届けのときもそれを言われましたが、先生があのこの世で極楽世界を開いとかなきゃ、あの世で極楽はないといつも言われるとがね。
 もう本当にそうであったと言う事を話されるんです。もう仕舞いはとうとう泣き出してしまわれましてね。だから私は思うのですけれども、信心は本当にみやすいもんだと言う事ですよ。難しゅう言やなんぼでも難しゅうなるけれども、というてほんなら信心も手習いも同じこと、一段一段上がっていく進んでいくんだと仰るように、一段一段上がってだから上のところを高望みするから難しいのじゃないでしょうかね。
昨日は、げんちょうという本が出ております。その中に桂先生のお伝記が、漫画になって、ずうっと出ておりますのが、一冊のこの本になって、昨日沢山送ってきております。でこれをみんなご信者さんに売ってくれというわけです。一冊が五百円なんです。それで昨日私がとにかく、あのまたあるそのお年寄りが、もう本当にこういう有難い信心を、嫁後やら息子達にもどうでも分からせたい。
 どうぞあの信心をしてくれますようにと言うような願いがありましたから、ちょうどここでそんなちょうどこれが来たばっかりで、読んでおりましたから。これがあの漫画になってそれは嘘じゃない。本当の事を漫画風に書いてあるだけですからね。皆さんもあの金光大神の漫画を求められたでしょうか。あれ一冊読むと大体、金光大神のお伝記のあらましの事が分かるんです。
 それでこれはもう大人子供が、あの読ませて頂いたわけですけれども、今度桂先生のこのご伝記は、もちろん子供達もあの買うことでしょうけれども、こりゃ家の信心のない息子やら、嫁達にでもこれなら読みはせんだろうか。だからこれを求めて帰られたら、ちがわんごと金光様の信心の有難い事が分かりますよと言うて、昨日幾らもはあそげん良かもんがでとるなら、どうでんこうでんいっちょ、分けてくださいと言うてですね。ま買っていかれました。
 だから信心もやはりお互いの信心が、大体漫画的なところやなかろうかとこう思うんですね。難しいこと。そういう意味であの今度記念祭に、こっから出ました教典感話なんかは、やっぱそういう意味合いでうけておるのじゃないかと思います。もうみんながあのどこへ行くでも持って歩いてそこで開く。ずうっと読まんなんというのじゃない。そこには短い。例えば私が四分か五分かで、皆さんに聞いて頂いた話ですからね。それでいてそこにおかげの頂けれる、何かポイントのようなものがあるわけです。
 ですからあのなにか難しい、そのものではなくて例えば漫画のようなものなら、大人でも子供でも読むし、又は短い文であったらあの誰でも読むし、それが例えば漢字ばかりで書いてあって仮名使いもしてない、こう挿絵もないと言う様なものは、やはりこうばらばら見ただけで、読む気持ちが致しません。だから本当に勉強するという人は、でなからなければ勉強は出来ません。けれども、やはり先ず、ほんなら、自分の子供やら、嫁御達やらにでも、信心を伝えたいと。
 言うなら漫画的なお話から、言うなら漫画的な先人から伝えて行く様にしたら良い。そう言うのがみやすいと言うのじゃないでしょうか。そして漫画ばかりではない、少しは骨のある本も読ませて頂け、勉強が面白うなってきたら、もうそれこそ皆さんのように、朝の御祈念に参って見えると言う様な事もです。昨日の関さんの例をとりましたように、朝参りの中にこういう楽しみがあった、こういう喜びがあったと言う様になってくれば、もう決して難しいもんじゃないわけです。
 ならもっともっと、例えば難しゅうなるなら毎日ここで朝の御理解を、修行生の方達がみんな研修を致します。やはり一つの勉強です。ですから二辺も三遍も御理解を頂かなければなりません。そしてそのまあまとめを致しますから、まあ一つの勉強です。はあ皆さんが良い発表をなさる。よい話がある。というてここで修行生の方達の研修が始まったときに、幾らもあのあの時間に来ると、研修の話がいただけるからと言うて、見えた方達がありましたけれども、やはり長くは続きませんでした。
 もう朝参りをしとる。そしてまた勉強に通うてくるというほどしの方は、そう沢山はありません。けれども私は研修させて頂きながら、もうみんな私を始めおかげを頂くのですけれども、いうならば朝のご理解に聞かせて頂いたところから、次々とまあヒントを得て、良い信心深い信心又は、そういう広さがあった教えだったかという風に、こう分かっていくと言う事は、まあみんなはどうか知らんけれども、やっぱり信心を進めていく楽しみです。だから楽しみが出来るようになるとです。
 私はもうみやすいんだと言う事になるのじゃないでしょうか。そういう信心がいうならば段々いうなれば、いわゆる漫画的な中からま、挿絵のある大きな字で書いてあるま、短文的なものである。それからまあ言うなら、字引を引いて読まなければ分からないと言った様な、難しい本なら本をよんで、それこそ学徳が身につくとこう。そういう順序を辿っていく信心を、私はみやすいと言う風に今日は聞いて頂いた。だからいつまでもなら漫画的な信心であってはならないと言う事なんです。
 吾と我心が拝めれる。そういういうなら、同じ信心が十年続いたんでは、拝めると言った様な事にはなりはしません。けれども信心がだんだん進んでいく。そこに楽しみがあり、身について行く信心の力というものが、有難いものになってくる。有り難いものになる、楽しいものになる、もうそこには修行そのものが有り難いものになてくる。なるほどみやすい難しいものではない。見やすいと言う事になるのじゃないでしょうか。これはもう何の稽古でもそうです。
 ですからもう難しいと言うて、途中でさじを投げたら、もう稽古は出来ません。昨日善導寺の原さんの姪ごさんが神戸のほうへ二人行っておられます。二人ともあちらで大変おかげを頂いておられる。姉さんの陽子さんはこちらへおいでの時に、熱心に参ってきておられましたから、皆さんもご承知でしょうけれども、その人の妹さんがあちらに縁について行っておられます。結婚してだいぶんなりますけれども、子供が出来ません。それでまあ一生懸命お願いをしておかげで出来た。
 もうもう流産するだろうかと言うような中をもうお願いし続けて、おかげを頂いたけれどもそれが大変な、この難産の兆が見えまして、いわゆる、手術して子供出さんならんという、もう手術室に入るという寸前に、おかげでそれこそ隣知らずに安産のおかげを頂いた。もうお医者さんがたまがるほどおかげを頂いた。それでまあ結婚して何年も子供が出来んと思うておったのが出来たのですから、向こうのお父さんになる人、主人になる人もまあ大変喜んでもうあの、電話をお父さん架けて来たときにはもう。
 もうそれこそこれが本当に嬉しゅうして、嬉しゅうして応えんという声じゃろという声で、おかげでおかげで安産のおかげ頂いてから、腹切らんならんとが切らんで済んでおかげ頂いたと言うてからもう初めてでしたけれども、私とあのとにかく、お神様にお礼を申し上げてくださいと言うてですね。それからお名前も頂いておった通りに、息子が生まれましたと言うて、あの貞一という名前を頂いておりました。あのおかげを頂いてそれからもう直ぐ、あの生まれてから直ぐの赤ん坊の写真を送ってまいりました。
 ここにあのもうそれこそ肉の塊のようなもんですよね。ちょいと生まれたばっかりのつですから。こらもう親が見りゃほんにこう良いかか知れんばってん、他人の私が見たっちゃ、こげな気色の悪かごたる感じがするわけです。ばってんやっぱ親はこう送ってこにゃおられない。それで昨日紀子さんといいますが、あのお礼の手紙をもう何回も何回も四、五日前電話がかかって、風邪ひいたちいうて電話が架かってきた。
 それがおかげ頂いてもう直ぐおかげ頂いて、風呂にも入れられるようになったと言うて、まあお礼の手紙が来ました。ここにその赤ん坊の写真を、私が二枚入れているんですここへ。そりけんこう開けるたんべんに、ここにこうやって見えるわけです。一つはあの井上さん所の、四国のご兄弟のお孫さんが、まあ大変な病気ですよね、こう足の骨が腐っていくち言うのは。それがもう不思議にその、骨がそげなはずは無いんだそうですけどもね。それが出ていってこの頃は立てるようにおかげを頂いた。
 というもうずうっとこんな写真を、この頃から持って見えとりましたからね。こらもう本当に可愛らしいです。もう可愛い盛りのそこまで成長しておりますからね。だからこれを私は、何時もここん中に引き出しにこう入れといて、開けるたんべんにやっぱし、祈るわけです。まあいうならばですたいね。こらそげん他人のその赤ん坊のその、生まれたばっかりのこう口開けてから。あっはははは、それとまあグロテスクな格好ですよ、生まれたばっかりの写真ですからね。
 けれどもね私がこれを毎日、何回となしに開けるたんべんに祈るわけです。ここに私は心情があるという話しを昨日させて頂いたんです。ですから祈りの内容でもです、自分の信心が楽しゅうなる。ほんならあかの他人の見かけはこげなというと、生まれたばっかりのま、気色の悪かごたる赤ん坊、あっははですけれどもね。なら私がこの写真を見るたんべんに、やはりこの子の成長を祈らずにおられないと言うのが、親の情じゃないだろうか。心情じゃないだろうか。
 ここではそういう心情に一人一人が繋がっておられるから、おかげが頂くんだと。と言う様なまお話。私も初めからそうではなかった。けれども段々信心を進めていくうちにです。段々難しいところに入っていけば行くほど、楽しゅうなり有難うなり、いよいよご神慮の深さ、広さが分かってくればくるほどにです。有難うなって来る。楽しゅうなってくる。日々が信心生活が。昨日は信心生活とは、喜びに満ちた生活だと。それが高じてくると溢れるようになるようになるんだと。
 その溢れるようなものが示現活動と言う事になって来る時に。まあ素晴らしいおかげの世界が言うなら、おかげの輪が広がっていくんだという、昨日のご理解でしたが。私共の信心が、そう言う様に広がっていっておるだろうかと。私共の祈りという内容が、ただ私私一家の事だけで、まあだ自分の事だけで一杯だと言う様な所から、一つも進展していないのではないだろうか。こう言う事まで祈られる。こういう人達の事までも、お願いさせて頂けておる、自分自身が有難いと言う事になるのじゃないでしょうか。
 十年とそういう信心が続いて進んだらという風に、私は頂かなければいかん。ただ同じ信心が十年いや、五十年続いたところで、わが心がまつれるようにはなりはしません。だから信心が十年と続いて段々、一段一段いわば有難うなって行く。その有難い内容もです、ほんなら祈りを、自分の祈りを思うて見てもです。こう言う事が祈れれるようになった自分。三代金光様が。
 今上に飛行機の音がしております。飛行機が飛んでおりますが。どうぞあの飛行機が、目的地に無事に着いて無事にまた、帰られるようにと言うて祈ります。赤ん坊の泣き声が聞こえたら、赤ん坊が何かむづかっておる。痛い痒いがあるのじゃなかろうかと思うて祈らずにはおられませんと言う意味のお言葉がございます。そういう。世の中が明るうなるとか。世の中が清まるとかと言う様な願いを、私共が段々持たせて頂いて。自分に係わり合いのある無いは別として、いうならば飛んでおる飛行機の上の事でもね。
 泣いておる、どこの赤ん坊かも分からない赤ん坊の事でも、祈らずにはおられないそういう心が、われながら喜んで心をまつれと言う事じゃないでしょうか。お互い永年信心をさせて頂いておるけれども、いつまでたっても漫画的な信心から、一歩も進んでもちっと難しいこと、もちっと身体がきついこと、ちょっとしろしい事やらにはね。手を伸ばそうともしない様な事ではです。いつまでたっても信心が難しいもの、見やすいものと言う事にはなりません。
 そのお年寄りの方達のお話を、一人一人聞かせて頂いて。全然信心の全然信心の無かったお婆さん達が。もう本当に最近今そのひとかどの例を言うとです。もとこの村内におられた方なんですけれども、それこそ家の中に喧嘩の絶え間が無かったと、いわば言っておられます。それが喧嘩どころかもう本当に極楽世界。この世で極楽世界に住まなきゃ、あの世に極楽世界はないと、親先生から聞かせて頂いて、話を聞くたんべんに、お婆さん、改まっていかれるうちにです。
 息子が良うするようになった。嫁後が良うするようになった。わざわざおばあちゃんの部屋までも作ってくれた。今度あちらへ新築して、あちらへ行かれたわけなんです。もう、有難づくめの中にあって極楽世界。だからこの有難い信心を、嫁にも息子にも分からせる。そんな本当に有難い漫画の本が出ておるなら、どうでん私も一冊分けてもらおうと言う様にです。いわば子にも孫にも伝えていけれる、そういう手立てと言う様なものがね、出来る信心。もちろん自分の信心の内容と言うものはですね。今まで祈れなかったことが祈れていっておるおかげ。
「その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが。」信心には必ず、神様の願いと言うものがかけられます。ですからいうならば親だから。いわゆる心情だから。這えば立て、立てば歩めのいわば親心が、必ず出てまいります。だからね。あの時こういう昨日もちょうど、あのあちらのあちらは何ちいうですかね、朝倉郡のほうから参ってきます、平田さんて熱心なご信者が、その方の里のお母さん。そこの嫁さんが子宮筋腫で、医者はもう時間の問題ち言うほどしにひどかったんです。
 それがおかげを頂いて退院のおかげを頂いたと、昨日お婆ちゃんと一緒にお礼に出てまいりました。それがあのときにああいう信心でおかげを頂いたから、この次もあの手でいけば良いと言う事は、決して無いです。どんなに例えばほんなら、そういう無い命を助けてもらう時でも、ああして一生懸命お縋りしてお参りさせて貰うた。そしておかげを頂いた。だから次にまたほんなら、その問題が起こったときに、ほんならその時と同じ信心では、不思議におかげにならないです。
 なぜかというと信心が進んでおらなきゃならん少しでも。それで少しは心の上にも形の上にも、変わった信心させてもらわなければおかげは受けられんです。そりゃあ難しかの信心ちゃち、だからいうわけなんですけれども。それが親心なんです。いうならば這えば立て、立てば歩めという親心が、そういう形で現れてくることがございます。だから信心は絶えず。前進前進の形をとっておる信心でなからなければいけないし。だから限りないおかげの世界も、また広うなって行くわけなんです。
 だからその信心がだんだん進んでいく。その日その日の、おかげを受けていけばと言う事はね。その日その日のおかげと言う事は、形だけの事ではない。信心もいうならば、成長していっておるおかげを、頂いていけばであります。そこからおかげを受けていけば立ち行こうがと。信心をみやすうするが良いぞと。だから信心をみやすうするが良いと、言う事は信心をね。みやすうするためのいうならば、信心が良いぞと、言う事になるのじゃないでしょうか。
 いうならば信心が有難うなる、楽しゅうなるという工夫が要るぞと言う事にもなると思うんです。一番自分で自分の信心が、どの程度に進んでいっておるかと言う事はね。自分以外の事にどれだけその輪が広うなっていって、実感を持って祈っておるかと。さあ私は天下国家の事を祈りよります。世界真の平和、世界総氏子家内安全を祈りよりますと言う様なものではなくて、そんなうつろなものではなくて。
 自分のことのように、いや自分のこと以上に祈れれる、自分の周辺にいうならば、そういう光りの輪が広がっていっておるか。そういう祈りの中心に自分があるかどうかと言う事を見るが、大体自分の信心の進んでおる程度というものが分かります。そういう信心を進めていけば、必ず十年もしたら本当に、われながらわが心をまつれれるようなおかげを頂き、信心というものがいよいよ有難い楽しい。
 そして愉快でもあるほどしの信心。この世でいよいよ極楽の世界を開かせて貰うてね。この心の状態があの世へ続くのだから。あの世もまた有難いことだと、いうならば、そういう観念も出来てくるというものです。そう言う信心を一つ頂きたい。だから信心はいつも見やすいところに立っておらなければならない。と言うて何時も漫画ばっかり読んでおると言う様な見易さではなくて、難しい本も見やすう読めるようにならなければいけないと言う事でありますね。
   どうぞ。